2009年10月12日月曜日

激闘!マニラでの4年間 (第2章 マニラ生活開始!)

2001年3月末の良く晴れた日の夕方、Philippines ManilaのNinoy Aquino Airportに到着した。
当時、無職でフィリピンに人脈なしの私には、当然ながら、迎えの車なんて来ない。
空港で、タクシーを捕まえて、Makati市にある、ビジネスホテルに移動した。
(因みに、土地勘の無い観光客は、マニラで普通のタクシーを乗るのは辞めたほうがいい。かなり、危険です。)
ホテルは、マニラ唯一といわれるビジネス街Makatiにある、中級ビジネスホテルで、一泊1500円位の所だった。
とりあえず、シャワーとトイレはついていると言うだけの質素なホテルだった。
「就職を決めて、住むアパートを確保するまでの滞在する。」と決めて、とりあえず1週間分を前払いで支払った。
着いた日は、ホテルの周りを歩き回り、ホテル近くのバーで一杯飲んだだけでホテルに戻り、翌日からの異国での就職活動に備え、英文履歴書の推敲等に費やした。
夜、ホテルの窓から外を見ると、よく晴れた空に、熱帯の星空が綺麗見えた。
遠くでコンサートをやっている様で、AbaのDancing Queenが聞こえてきたのが、今でもとても印象に残っている。
翌朝は、早く起きて、ホテルの周りのジョギングをして、気合を入れてから、就職活動開始。
事前に、当たりを付けておいた会社は、たったの2社だが、そこは、超楽天家の私だけあって、「何とかなるだろう!」と信じ込んで、いざ出陣。

因みに、2社とも、100%フィリピン資本のフィリピン企業。
その時点までの職歴は、大手銀行員4年(支店融資課、本部資金証券部)と通信機器メーカーの国際営業職3年。
また、この時点で、「これは!」と言うResume上のウリはなし。
ただ、ガッツとやる気だけを、前面に出し、自分を売り込んだ。
2社共、SI(システムインテグレーター)企業の営業職で申し込んだが、驚くほど、あっさりと就職は決まり(面接15分)、「来週から出社してください!」で決定。
入社した会社は、20年位の歴史のある会社で、従業員は200人程度の会社だったが、「外国人の採用は初めて」という会社だった。
給与は、勿論、現地スタッフと一緒。
具体的な給与は、月1万5000ペソ(当時のレートで3万円)の基本給で、プラス営業の歩合給。
(ただ、かなり高い売り上げ成績を出さないと、歩合給を貰うことは不可能なシステムで、1年3ヶ月勤務した私でも、プラスの歩合給を貰ったことは、3、4回しか無かったと記憶。)

当然だが、家賃補助、Visa代、健康保険等の諸手当は、一切無し。
勤務は月から土。つまり、週休1日制。
まあ、フィリピンのビジネス界のTypicalな給与モデルだったと思う。

住むところは、会社の総務の女性が探してくれた、Pasig Riverの近くの古アパート。家賃は5000ペソ(当時のレートで1万円)。
ガスはないので、お湯は出ない。
むき出しのコンクリートの床や壁の2部屋のアパートで、水シャワーとトイレが付いていた。
典型的なフィリピン人の庶民の生活エリアだった。
低地だったので、スコールが降ると膝まで水に浸かりながら、アパートの玄関から外に出た。
アパートの部屋には、いつもネズミが走り回っていたし。。。。
一番、辛かったのが、壁が薄く、通路が狭く、隣の部屋の生活音がすべて聞こえる事。
隣のFamilyはいつも大音量でテレビをかけていて、本当にうるさかった。
因みに、その後、日本に帰ってきて、誰からも不思議がられたのは、「なぜ、日本企業の現地採用の口を捜さなかったの?」という事と、「多少、蓄えもあった筈なのに、どうしてそんな安アパートに住んだの?外国人用のコンドミニアムだって、そんなに高くないでしょう?」と言う事。
理由は単純。
「自分の体力、知力、精神力の限界を、海外ビジネス界でチェックするのが目的なのに、海外まで来て、日本企業に就職するのでは意味が無い。」と単純に考えた。
一方で、直前に3年間勤務していた東京の通信機器メーカーが、本当に、無気力かつ怠惰かつ無能な会社で、トラウマになっていたと言う事もあると思う。
つまり、当時は、「すべての日本企業=あの駄目な通信機器メーカー」位に思っていたので、「日本企業に勤務する」ということは最初から、想定外だった。

もっと言えば、当時の日本の平和ボケと、当時の森首相に象徴される、あの「日本人特有の鈍牛さ加減」が、日本人として、本当に恥ずかしくて、「日本人と言う国籍を抹消したかった。」とか「日本と関わりたくなかった」という事も確実にある。
住まいについて言えば、確かに、月4万円とか5万円くらい払って、プール付きの外国人向けコンドミニアムに住むことも、蓄えを取り崩せば、経済的には問題は無かったが、「月給3万円で働くのだから、それに合わせた、それらしい生活をしよう。」と思い、敢えて、安アパートを選んだ。

それに、一切の身分保証が無く、身一つで、フィリピンに行った私にとって、あの5百万円の蓄えは「虎の子」だった。
だから、なるべく、それには手をつけなくなかったと言うのもあった。
兎に角、問題はあったが、あっさり就職は決まり、住むところも決まって、出だしは順調だったと思う。
これがスタートだった。
当時30歳。
さっきも書いた様に、住んでいたエリアは、典型的なフィリピンの住宅街で、汚いしうるさかった。
また、「ホコリを被り、排気ガスを浴びながら、屋台でビール付き、200円の食事をする」様な生活だったが、悲惨な気持ちは全く無く、挑戦者特有のウキウキした気持ちであった。

続く。

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