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2009年10月31日土曜日

インドネシア バリ島に行ってきました。


バリ島に、6泊7日(機中1泊)で、行ってきました。
東南アジア中心の国際ビジネスマンを自称しながら、バリは勿論、インドネシアに行ったのも初めてでした。

率直に言って、バリは面白かったし、インドネシアの多様性というか包容力に驚いた。
インドネシアと言えば、イスラムの国と言うイメージが強かったのですが、バリだけは、ヒンズーの島との事で、まず、この単純な事実に驚いた。
当初は、スキューバーダイビングを中心としたマリンスポーツ目的であったが、結局、殆どの時間を島の内陸部のウブドというエリアで、寺院めぐりや劇場めぐりをしていた。
バリ島の歴史の重さを感じる旅行だった。

バリの文化とか歴史の深さに驚いたし、また、こうした異文化を内包するインドネシアと言う国家の多様性にも感動した。
また、現地で見つけたガイドのスワさんが、とても親切で、結局、4日間、ずっとスワさんにガイドをお願いすることとなった。
スワさんに拠れば、インドネシアには、17000の島があり、島ごとに言葉が違うとの事。
バリ語はとても難しいらしいが、インドネシア語はとても簡単だとも言っていた。
(帰国後、ネットで調べる限り、確かにインドネシア語は簡単らしい。Wikipediaには、「世界でもっとも習得が容易な言語の一つ」との記載があった。)
今、手元にJakarta Post(英語)があり、兎に角、向こうの社会を理解しようと、興味をもって読んでおります。
現在、ハングルの勉強と、朝鮮の文化歴史の習得で、手が一杯ですが、「何とかインドネシア語も頑張りたいなあ。」
とまで、思っております。
兎に角、知的に感動した旅でした。







(ガイドのスワさん。手前にいるのが、妻)

P.S. 勿論、ヌサドアという地区で、スキューバーダイビングもしました(1ダイブだけ)。
まあ、リゾートダイバーの私には、1ダイブでも十分だった。(水深は13mだった。)
Youtubeに、スキューバーの様子もアップしておきます。
Youtubeのチャンネルは、「哀しみの貴公子」とう名前のチャンネルです。
直接いく場合は、これです。→ http://www.youtube.com/watch?v=ensrIx3goUg

2009年10月13日火曜日

ハイエク全集 と RFC


自称、「中堅大学経済学部2年生」の若者Yへ。
 
貴公子も、経済学部出身なので、ハイエクも、マルクスも、アダムスミスも、ミルも、ケインズだって、勿論、全部、勉強しました。
ただ、ハイエク全集やマルクス資本論自体を直接、読んだ訳ではなく(「共産党宣言」くらいは直接読んだが。)、
ハイエクやマルクスを解説した本を読んだというのが、正確な所です。

私のかなり偏った理解に拠れば、経済学とは、経済思想を研究する学問で、経済哲学と同義である。(と思う。)
(その意味で、マクロ経済学は、基礎知識としての意味があるので兎も角、線形代数を駆使した数学と化している
ミクロ経済学は、経済学ではないし、実社会でも役に立たないと思う。)
先人の思想を学ぶのが、経済学の本質だと思う。
因みに、私自身は、ハイエクの新自由主義思想を標榜しております。

マルクスの資本論なんて、普通の頭脳の人間には理解できないし(多分。。。)、Adam Smithを直接、読む様な人は研究者以外にはいない。
ITの世界にも、RFCという基準があります。
Request For Commentの略で、ITの世界標準の基本ルールです。

ただ、10年間、ITを生業としている私も、RFCを直接、読んだことは一度もありません。
ITの研究者でもない限り、その必要も無いはず。
(因みに、RFCを解説している本を読むだけでも、十分に骨が折れます。)
 
これが、貴方への回答です。
経済学を勉強するのでも、ITを学ぶにも、変な背伸びは止めて、身の丈でやっていきましょう。お互いに。(笑)

2009年10月12日月曜日

激闘!マニラでの4年間 (第2章 マニラ生活開始!)

2001年3月末の良く晴れた日の夕方、Philippines ManilaのNinoy Aquino Airportに到着した。
当時、無職でフィリピンに人脈なしの私には、当然ながら、迎えの車なんて来ない。
空港で、タクシーを捕まえて、Makati市にある、ビジネスホテルに移動した。
(因みに、土地勘の無い観光客は、マニラで普通のタクシーを乗るのは辞めたほうがいい。かなり、危険です。)
ホテルは、マニラ唯一といわれるビジネス街Makatiにある、中級ビジネスホテルで、一泊1500円位の所だった。
とりあえず、シャワーとトイレはついていると言うだけの質素なホテルだった。
「就職を決めて、住むアパートを確保するまでの滞在する。」と決めて、とりあえず1週間分を前払いで支払った。
着いた日は、ホテルの周りを歩き回り、ホテル近くのバーで一杯飲んだだけでホテルに戻り、翌日からの異国での就職活動に備え、英文履歴書の推敲等に費やした。
夜、ホテルの窓から外を見ると、よく晴れた空に、熱帯の星空が綺麗見えた。
遠くでコンサートをやっている様で、AbaのDancing Queenが聞こえてきたのが、今でもとても印象に残っている。
翌朝は、早く起きて、ホテルの周りのジョギングをして、気合を入れてから、就職活動開始。
事前に、当たりを付けておいた会社は、たったの2社だが、そこは、超楽天家の私だけあって、「何とかなるだろう!」と信じ込んで、いざ出陣。

因みに、2社とも、100%フィリピン資本のフィリピン企業。
その時点までの職歴は、大手銀行員4年(支店融資課、本部資金証券部)と通信機器メーカーの国際営業職3年。
また、この時点で、「これは!」と言うResume上のウリはなし。
ただ、ガッツとやる気だけを、前面に出し、自分を売り込んだ。
2社共、SI(システムインテグレーター)企業の営業職で申し込んだが、驚くほど、あっさりと就職は決まり(面接15分)、「来週から出社してください!」で決定。
入社した会社は、20年位の歴史のある会社で、従業員は200人程度の会社だったが、「外国人の採用は初めて」という会社だった。
給与は、勿論、現地スタッフと一緒。
具体的な給与は、月1万5000ペソ(当時のレートで3万円)の基本給で、プラス営業の歩合給。
(ただ、かなり高い売り上げ成績を出さないと、歩合給を貰うことは不可能なシステムで、1年3ヶ月勤務した私でも、プラスの歩合給を貰ったことは、3、4回しか無かったと記憶。)

当然だが、家賃補助、Visa代、健康保険等の諸手当は、一切無し。
勤務は月から土。つまり、週休1日制。
まあ、フィリピンのビジネス界のTypicalな給与モデルだったと思う。

住むところは、会社の総務の女性が探してくれた、Pasig Riverの近くの古アパート。家賃は5000ペソ(当時のレートで1万円)。
ガスはないので、お湯は出ない。
むき出しのコンクリートの床や壁の2部屋のアパートで、水シャワーとトイレが付いていた。
典型的なフィリピン人の庶民の生活エリアだった。
低地だったので、スコールが降ると膝まで水に浸かりながら、アパートの玄関から外に出た。
アパートの部屋には、いつもネズミが走り回っていたし。。。。
一番、辛かったのが、壁が薄く、通路が狭く、隣の部屋の生活音がすべて聞こえる事。
隣のFamilyはいつも大音量でテレビをかけていて、本当にうるさかった。
因みに、その後、日本に帰ってきて、誰からも不思議がられたのは、「なぜ、日本企業の現地採用の口を捜さなかったの?」という事と、「多少、蓄えもあった筈なのに、どうしてそんな安アパートに住んだの?外国人用のコンドミニアムだって、そんなに高くないでしょう?」と言う事。
理由は単純。
「自分の体力、知力、精神力の限界を、海外ビジネス界でチェックするのが目的なのに、海外まで来て、日本企業に就職するのでは意味が無い。」と単純に考えた。
一方で、直前に3年間勤務していた東京の通信機器メーカーが、本当に、無気力かつ怠惰かつ無能な会社で、トラウマになっていたと言う事もあると思う。
つまり、当時は、「すべての日本企業=あの駄目な通信機器メーカー」位に思っていたので、「日本企業に勤務する」ということは最初から、想定外だった。

もっと言えば、当時の日本の平和ボケと、当時の森首相に象徴される、あの「日本人特有の鈍牛さ加減」が、日本人として、本当に恥ずかしくて、「日本人と言う国籍を抹消したかった。」とか「日本と関わりたくなかった」という事も確実にある。
住まいについて言えば、確かに、月4万円とか5万円くらい払って、プール付きの外国人向けコンドミニアムに住むことも、蓄えを取り崩せば、経済的には問題は無かったが、「月給3万円で働くのだから、それに合わせた、それらしい生活をしよう。」と思い、敢えて、安アパートを選んだ。

それに、一切の身分保証が無く、身一つで、フィリピンに行った私にとって、あの5百万円の蓄えは「虎の子」だった。
だから、なるべく、それには手をつけなくなかったと言うのもあった。
兎に角、問題はあったが、あっさり就職は決まり、住むところも決まって、出だしは順調だったと思う。
これがスタートだった。
当時30歳。
さっきも書いた様に、住んでいたエリアは、典型的なフィリピンの住宅街で、汚いしうるさかった。
また、「ホコリを被り、排気ガスを浴びながら、屋台でビール付き、200円の食事をする」様な生活だったが、悲惨な気持ちは全く無く、挑戦者特有のウキウキした気持ちであった。

続く。

2009年10月7日水曜日

激闘!マニラでの4年間(序章 マニラへの道)


「激闘系ファイター」、20台後半の時に通っていた空手道場でそう言われていました。
大学卒業後に4年間勤務した北海道拓殖銀行が破綻して、東京にある「悪い思い出しかない中堅通信機器メーカー」で働き始めた頃の事です。
拓銀での仕事では、罵倒叱責されながらも、一生懸命仕事をして、それはそれで、充実した生活であったが、この中堅通信機器メーカーでの勤務は、本当にくだらなかった。

毎日毎日、ビジネスマンとしての気力や能力が、吸い上げられて行く様な錯覚に襲われた。
無気力かつ怠惰かつ無能な会社であった。
そんな仕事でのフラストレーションを、空手にぶつけた。
従って、あの頃の空手への打ち込みは凄かった。
今、あの頃の試合のビデオを見ると、技術的には、全然なっていないが、気迫だけは凄かったと感心する。
強い奴と組み手をして、何度も何度も上段回し蹴りを食らい、意識を飛ばしたり、
骨折したりしながらも、体を鍛えていると、いつしか私自身も肉体的に強靭になっていった。
そうなると、人間とは不思議なもので、仕事を通して得られる自尊心とか、勉強して資格取得して得られる自信とかとは、全く異次元の自信が得られた。
「それは何か?」と問われれば、自己に対する「絶対的な信頼」とでも言えば言いのであろうか。

昔、三島由紀夫が、「強靭な肉体に、健全な精神が宿る。」みたいな事を言ったが、正にそれを実感する瞬間だった。
当時、通っていた空手道場の先生が私に言った言葉は忘れられない。
「君は根性があるし、肉体的にも強靭だ。サラリーマンなんか辞めて、空手で身を立ててみたらどうだ?」
あの時ほど、グラッと来た言葉は、それまでの人生で無かった。
(あの時、もしそうしていたのなら、今頃、私は何をしていたのであろうか?小さな道場を開いて、子供達に、空手と勉強を教えていたりしていたのかなあ。)
兎に角、空手道場の先生がチラッと言った一言に、感激する程、あの「無気力な会社でのお遊び仕事」に、退屈もしていたし、ストレスも溜まっていた。
(私は別に優秀な人間ではないが、あの会社では、「この程度の仕事ならば、自己の能力の1%も使う必要がない。」と思っていたし、社内で、そう公言していた。何度でも言うが、本当に、エネルギーレベルの低い人間の集まった無気力かつ面白みのない会社だった。)

事態がここに至って、さすがに、真剣に、局面打開を考えるに至った。年齢は30歳。
あの当時の安易なオプションとしては、別の日本企業にさっさと転職すると言うものだったが、
「それでは、イマイチ、ぶっ飛び方が足りない。」、「限界超越をしていない。」、「面白みがない。」と思った。
当時は、独身だったし、肉体的にも、もっとも強靭な時期だったし、気力も充実していた。
「失うモノは何もない。もし失敗しても、最悪、死ぬだけだ。今しかできない事、この世で俺にしかできない事をやろう!」と真剣に考えた。
また、「国際ビジネスマンを気取るなら、いまこそ、海外で裸一貫で、全身全霊を賭けたガチンコ勝負をしてみるべきだ!」と考えた。
頭に浮かんだ候補は、シリコンバレー、台湾、そしてマニラ。
結論は結構、簡単に出た。
シリコンバレーというのは、夢であったが(今でも夢だが)、あの当時の私では、技術的能力の観点からも、無理だと考えた。
また、向こうで、チャンスを探すにも、物価の高いカルフォル二アでは、チャンスを探す前に、私の方が財政破綻し、単なる「観光旅行」になってしまうのは、目に見えていた。(だから諦めた。当時の私の全財産は、5百万円。) 

また、台湾はとても面白そうだったが、中国語が全く当時、駄目だった私には、「中国語をある程度のレベルにまで引き上げるだけで、1、2年は軽く過ぎてしまう。」と考え諦めた。
目的は、語学留学でも、ましてや長期観光ではなく、「海外のシリアスなビジネス現場で、タフなビジネスをする事。
孤立無援な環境で、どれだけビジネスが出来るのか?」をチェックすること。
言い換えれば、「自分の知力、体力、精神力の限界を見極め、極限状態で自分がどうなるのか?」をチェックすること。

上記の基準から、マニラをあっさり選んだ。
「いざ、マニラへ!」、そう単純に思った。
しばらくして、会社の上司に辞表を出した。
(この上司については、「いつも背中を丸めて、お茶を「ズッ!」と音を立てて飲んで、
 泣き言をメソメソと言っている無力な初老男」と言う記憶しかない。)
上司 :「どうして辞めるのかなあ?ワーキングホリデーにでも行くのかなあ????」
貴公子 : 「マニラで職探しをします。」
上司   : 「へー、面白いこと考えるねえ。娘の友達が、スキューバーダイビングが好きで、
フリーターをしながら、しょっちゅうフィリピンに行っているよ。」
貴公子 :  「はあ。」
上司    :「貴公子さんも、スキューバーが好きだったんだあ。そういう事が好きな人には、フィリピンは良いよねえ。」
貴公子 : 「そうではなく、マニラで職探しをして働きます。可能であれば、現地での起業も考えています。」
上司  : 「へえ。本気なんだあ。なんで、そんな事するの? 部長に、何と説明すればいいんだよお。。。」
貴公子 : 「ご理解頂けないと思いますが、自分のビジネスマンとしての裸の能力を外国でチェックしたくなったのです。」
上司  : 「わざわざ、苦労することはないよ。人生は楽に生きた方が良いに決まっているよ。
苦労するだけ、馬鹿みたいじゃん。考え直そうよお。」
貴公子 : 「今こそ、自分なりの勝負を海外でする時期だと判断しました。」
上司  : 「そんな事、急に言われてもねえ。それに、部長が何と言うか。」
貴公子 : 「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません。では、私から部長に説明します。」
上司 : 「そうしてくれる? でも、海外に行きたいんだったら、心配しないでいいよお。君は、ウチのアメリカ子会社Admin担当駐在員の『次の次の次の候補』だよお。貴公子さんは、英語も好きじゃない。」

この「次の次の次」という言葉は今でも明確に覚えているし、今後も忘れる事はない。
正に、あの会社の緊張感の無さを象徴する言葉だと思う。
という訳で、何の躊躇もなく、退社した。
上記がマニラに行くことになった理由であり、経緯です。
拍子抜けする位、単純な理由で、馬鹿らしい理由とも言えるが、本当に、ただ、それだけの理由です。
別に、フィリピン人の彼女がいたとかそういう事ではありません。(笑)
ましてや、警察とかヤクザに、追われていた訳ではありません。(大笑)
マニラに行く1カ月前から、航空券の購入等の準備を始めた。
その間に、大学の友達との送別呑み会、空手の試合に出場、TOEIC受験等をした。
TOEIC受験は、旅立つ前の集大成として。
この時、なぜか、あの当時の英語力ではありえない920点が、まぐれ的に取れた。
何だかTOEIC実行委員会までもが、私のマニラ行きを応援していてくれている様な気がした。

すべてが終った2001年3月末、晴天の成田空港の昼下がりに、驚くほど、晴れ晴れした気持ちで、私は飛行機搭乗を待っていた。
当時、付き合っていた彼女が成田まで、見送りに来てくれており、空港内の小さなスタンドで、ビールを奢ってくれた。
続く。。。。。

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2009年10月4日日曜日

失望した!


中川昭一元金融担当大臣の死亡の報が飛び込んできました。
率直に言って、驚きを通り越して、怒りを感じます。
中川氏が、自殺か病死か現時点では不明であるが、自殺なら史上最悪の極悪政治家であり、
病死なら自己の健康管理もできない情けない男で、「政治家の資格なし!」と言い切る。
 
少し前にも同じ事がありましたね。
2006年のホリエモン偽メール事件絡みで、衆議院議員を辞職し、2009年に
自殺した永田寿康の事です。
あの時も、怒りを感じたが、同じレベルで不快である。
確かに、酒とドラッグで公衆の面前で醜態を晒し、大臣辞職し、その後の衆院選挙選挙で惨敗し、議席を失った事は、精神的に辛かったのではあろうが、
国政レベルの政治家は、その程度で参ってはいけない。
政治家が精神的に落ち込むのは、国家や国民に不幸が起きたり、国益が損なわれた時にのみ、許されるのであって、
プライベートな事(落選したとか、酒で失敗したとか)で、参ってはいけない。
それが、政治家であると思う。
言い換えれば、政治家である限り、突然死する事は許されない。(特に、今回の様な状況では。)
 
そもそも、プレスインタービューの際に、泥酔していた事位で、一国の大臣が大騒ぎするな!
「俺は、酒が入っていた方が、頭が回るんだよ!」とでも強弁して欲しかった。
永田議員の時も同じ。
「事実関係を整理しないで質問したのは悪かったけど、それでも、武部さん、あなた怪しいよ!」位の事を
真面目な顔をして、シラッと言い切って欲しかった。
 
プライベートな事で精神的にめげるのは、私を含めた一般庶民の「特権」であって、政治家には許されない事である。
その覚悟が無いのに、中川氏や永田氏は政治家になったのであろうか?
政治家の自殺や突然死は、国民に深い無力感を与えます。
政治家である限り、死ぬことさえも、許されないと言い切る。
もう一度、言いますが、自殺なら極悪人、病死なら「政治家の資格なし」です。
その程度のメンタリティーならば、来世では、政治家を目指さない様に忠告します。
 
最後になりましたが、御冥福をお祈りします。

2009年10月3日土曜日

亀井静香金融相の暴走と、マスメディアの死。


誰がどう考えても狂っているとしか思えない、亀井金融相が唱える金融モラトリアム法案であるが、
不思議なことに、マスメディアがきちんとした分析や批判を加えていない。
 
「藤井裕久財務相は、反対の様だが?」みたいな、どうでもいい質問を亀井金融相に対して行い、
それに対する亀井氏の回答をそのまま記事にしているだけで、分析が全くない!
(ただ、「誰々がこう言った!」とかの事実を並べるているだけで、分析や批評の視点が全くない。)
マスコミは、いつからこんなに怠惰になったのであろうか?
この程度で、マスコミの記者が務まるなら、だれでも記者になれるのでは???
(今や、批評能力を持っているのは、個人のブログだけなのかなあ。。。)
と言う訳で、駄目なマスコミに代わり、本件に対する私なりの分析を加えます。(笑)
と言っても、金融モラトリアムと言う言葉だけが、一人歩きしており、その詳細内容を報道しているメディアもない様で、私の情報もどこまで正しいのか
現時点では不明ではあるが。。。
 
経済学的に言えば、この手の金融モラトリアム政策は、資本主義・民主主義を標榜する国家ではあり得ない。
また、既成の民間の金融契約に対して、後付で、国家が強制的に介入するなどと言うことは、法治国家としてもあり得ない。(と思う。)
 
と言うか、それ以前に、議論に値しない暴走ではないのか?
一体、亀井ごときが何を先走っているのか?
そもそも、8月の衆議院選挙で、国民の信託を受けたのは、民主党であり、亀井の国民新党ではない。
衆議院選挙後に、「勝手に」、鳩山民主党は国民新党と連立政権を組んだ上に、金融相の様なもっとも重要なポストに、
弱小政党の人間をアサインし、アサインされたエキセントリックな人間(亀井)が、好き勝手にやっているという図である。
 
思うに、論点は単純。
有権者は、民主党が国民新党と連立する事を、想定していなかった。
また、「金融モラトリアム法案」の様な重要な法案は、亀井の様なマルクス経済標榜者が、一人で勝手に決める様なものでもない。
さらに、素人でもこの程度の分析は加えられるのに、沈黙を守る大マスコミとは何なのか?(怠惰の極みではないのか?)
 
兎に角、「借りた金を返さなくてもいい。」と言う、徳政令如き法案は、経済秩序、金融モラルを破壊するだけではなく、
法治国家の根幹を覆す反国家的なテロ行為である。
 
あり得ないよ~。

2009年10月1日木曜日

2社目。暗黒の3年間(本文) ~ 大学卒業後で、マニラ渡航前


大学卒業後、縁もゆかりもない北海道の銀行に4年間勤務しました。
そして、拓銀が死んだ(倒産)のが、1997年の11月14日。
(当時、札幌本部の資金証券部と言う部署で、銀行全体の資金繰りを管理しておりました。)
というわけで、1998年1月に、退職しました。
翌2月は、東京への引越し(独身だったので、とりあえず実家に帰る。)、
就職活動、やりたかったレンタカーでのアメリカ旅行(ロス、ラスベガス、グランドキャ二オン)2週間をしている内に、すぐ過ぎてゆきました。

3月から、働き始めたのが、東京にある某中堅通信機器メーカー。
(今でも、生きている会社ですので、ある程度、ぼかして書くのをお許しください。)
配属は、国際営業部門。
「安易に、入社したのが間違いだった!」と、入社して3日後には後悔しました。
2月に就職活動していた頃は、「あの倒産した拓銀のエリート部門出身者」と言う世間的同情もあったと思うし、当時、20台後半で英語もそこそこ出来た私は(当時、TOEIC800点台前半)、不景気な世相の中でも、転職市場でそこそこ人気がありました。

当時、面白そうな会社数社から内定をとった私が、「なんで、あんなどうしようもない会社を、よりによって選んだのか?」は、今となっては私も説明できません。
「魔が差した!」とか言い様がありません。
兎に角、勢いが無く、スケールの小さく、気が小さく、「どうすれば大過なく日々を過ごせるかを必死に考えている」様な人間ばかりの会社だった。
会社の業績は、右肩下がりが10年以上、当時、続いており、会社資産(主に会社土地)を切り売りしながら、何とか倒産を免れていると言う情けない会社であった。
(今でも、まだ同じやり方で、辛うじて、死を免れている。)
と言う訳で、入社3日後には、「絶対、辞めてやる!」と思ったのですが、またもや魔が差して、ダラダラと3年も勤務してしまった。

ただ、一つだけ守り通した事があった。
「この会社では、昇進試験を受けない。」と言うルールである。
半年に一回、「昇進試験(面接)を受けましょう!」と人事から言われたが、意地でも受験しなかった。
理由は簡単!
あんな会社でも、「中途半端に昇進すると、弱い自分は、またもや退職できなくなってしまうのではないか?」と怖かったから。
だから、昇進自体を拒んだ。

兎に角、入社して3日後から、辞めることばかりを考えていた。
当時、自分に課したルールは、他には以下の通りだった。
- 仕事はきちんとする。
高校生のアルバイトでもできる様な雑務であったが、 「給料を貰っている限りは、自分のプライドに掛けて、きちんとやる!」と自分と約束した。
勿論、正社員で残業代も出なかったけど、毎日、朝8時には出社し、夜9時、10時まで雑用を必死にやった。
3年間勤務して、遅刻ゼロ。
休暇も、1年に1週間程度の休みを秋に計画的に取る位で、それ以外の休み(病欠等)は一切取得しなかった。

- ビジネスマンとして言うべきことは言う。
上司、同僚が駄目すぎて、何を言っても無駄なのは、入社3日目には分かったが、兎に角、ビジネスマンとして言わなければならないことは、ビジネスマンのプライドに掛けて、どんなに無視されても言い続けた。

- 英語の勉強をきちんとする。
   あんなどうしようも無い会社で、情けない上司、先輩に囲まれていたが、少なくとも、国際営業部であったので、メールや電話等で、英語を使う環境にはあった。
そこだけは、今でも、感謝している。
あの頃、土曜日や日曜日は、家で(実家で)、一日中、CNNやBBCを聞いていたし、片道1時間半の通勤電車で、Japan Timesを読んでいた。

- 体を鍛える。
「兎に角、昼休みは30分、ジョギングをする。」、「週に最低3回は、会社近くの空手道場に行く。」を自分に課した。
あの情けない会社から、抜け出すためにも、兎に角、資本となる体だけは鍛えるべきだと考えた。
兎に角、公私ともに、暗黒の3年間だった。
今になっても、「拓銀の事は、良くも悪くもいい思い出であった!」と言い切れるが、この電機メーカーでの3年間(20台後半の3年間)は、「思い出したくも無い、くだらない3年間であった。」と自信を持って言えます。(笑)  
唯一、この3年間で有意義だったことは、英語力を少しは伸ばした事と、空手を必死にやって体を鍛え、その後の人生の土台となった事位でしょうね。。。。
とりあえず、そういう3年間でした。
何度でも言いますが、あまりにも情けない会社での、馬鹿らしいサラリーマン生活だったので、思い出したくもありません。
という事で、あの会社(あれだけ赤字を垂れ流しながら、今でも東証1部上場で残っているのが不思議)の事を書くのは、これで最後にしたく。
次回は、国際ビジネスマンとして開眼した、マニラでの「地獄だけど、充実した4年間」の事を書きたいと思います。
あの4年間は、本当に、素晴らしい4年間だった。
マニラでの思い出だけでも、残りの人生を生きていけると言う位、戦い抜いた、素晴らしい日々でした。

次回(激闘マニラでの4年間、序章)はその素晴らしい4年間について、書こうと思います。

暗黒の3年間(序章) ~大学卒業後、マニラ渡航前


本ブログのアクセス数がおかげさまで、1900を突破しました。
苦節1年超で、やっと達成です。(涙)
2000の足音が聞こえています。
 
MSNのMyspaceも使いこなしていると、日に日に、満足度が上がってきます。
実は、Googleのブログサイトに、引っ越そうかと考えていたのですが、しばらく、MSNのMyspaceを使ってゆく事にしました。
今後とも、本ブログを気晴らしに読んでやってください。
 
さて、Myspaceのアクセス情報分析機能を使うと、本ブログへ、皆様が「どういうルートでアクセスするに至ったか?」の概略を知ることが出来ます。
つまり、「どういう単語を検索したら、本ブログがヒットしたか?」を知ることが出来ます。
今のところ、英語資格試験系の単語(英検、TOEIC、TEPテスト)か、IT系の単語(Citrix Xenapp、Cisco、Windows2003サーバー、
Mysql、Oracle、Web Application、PHP、Javascript、RDP、ICA)のヒットが多いようです。
こんな分析が出来るなんて、Myspaceも素晴らしいですよね。
 
ところで、ある読者からメールをいただきました。
曰く、「貴公子さんが、大学卒業後、縁もゆかりもない北海道の銀行に4年間勤務して、その後、さらに3年後に、
フィリピンマニラに行き、4年間、フリーターをしていたのは分かりました。でも、銀行とマニラの間の3年間は、どこで何をしていたのですか?」との質問をいただきました。
分かりました。気が進まないけど、お話します。
私の暗黒の3年間を。。。。。
長くなってきたので、一回、ここで、お終いにします。
何とか今日中に、暗黒の3年間のストーリーをアップします。(笑)