2009年10月1日木曜日

2社目。暗黒の3年間(本文) ~ 大学卒業後で、マニラ渡航前


大学卒業後、縁もゆかりもない北海道の銀行に4年間勤務しました。
そして、拓銀が死んだ(倒産)のが、1997年の11月14日。
(当時、札幌本部の資金証券部と言う部署で、銀行全体の資金繰りを管理しておりました。)
というわけで、1998年1月に、退職しました。
翌2月は、東京への引越し(独身だったので、とりあえず実家に帰る。)、
就職活動、やりたかったレンタカーでのアメリカ旅行(ロス、ラスベガス、グランドキャ二オン)2週間をしている内に、すぐ過ぎてゆきました。

3月から、働き始めたのが、東京にある某中堅通信機器メーカー。
(今でも、生きている会社ですので、ある程度、ぼかして書くのをお許しください。)
配属は、国際営業部門。
「安易に、入社したのが間違いだった!」と、入社して3日後には後悔しました。
2月に就職活動していた頃は、「あの倒産した拓銀のエリート部門出身者」と言う世間的同情もあったと思うし、当時、20台後半で英語もそこそこ出来た私は(当時、TOEIC800点台前半)、不景気な世相の中でも、転職市場でそこそこ人気がありました。

当時、面白そうな会社数社から内定をとった私が、「なんで、あんなどうしようもない会社を、よりによって選んだのか?」は、今となっては私も説明できません。
「魔が差した!」とか言い様がありません。
兎に角、勢いが無く、スケールの小さく、気が小さく、「どうすれば大過なく日々を過ごせるかを必死に考えている」様な人間ばかりの会社だった。
会社の業績は、右肩下がりが10年以上、当時、続いており、会社資産(主に会社土地)を切り売りしながら、何とか倒産を免れていると言う情けない会社であった。
(今でも、まだ同じやり方で、辛うじて、死を免れている。)
と言う訳で、入社3日後には、「絶対、辞めてやる!」と思ったのですが、またもや魔が差して、ダラダラと3年も勤務してしまった。

ただ、一つだけ守り通した事があった。
「この会社では、昇進試験を受けない。」と言うルールである。
半年に一回、「昇進試験(面接)を受けましょう!」と人事から言われたが、意地でも受験しなかった。
理由は簡単!
あんな会社でも、「中途半端に昇進すると、弱い自分は、またもや退職できなくなってしまうのではないか?」と怖かったから。
だから、昇進自体を拒んだ。

兎に角、入社して3日後から、辞めることばかりを考えていた。
当時、自分に課したルールは、他には以下の通りだった。
- 仕事はきちんとする。
高校生のアルバイトでもできる様な雑務であったが、 「給料を貰っている限りは、自分のプライドに掛けて、きちんとやる!」と自分と約束した。
勿論、正社員で残業代も出なかったけど、毎日、朝8時には出社し、夜9時、10時まで雑用を必死にやった。
3年間勤務して、遅刻ゼロ。
休暇も、1年に1週間程度の休みを秋に計画的に取る位で、それ以外の休み(病欠等)は一切取得しなかった。

- ビジネスマンとして言うべきことは言う。
上司、同僚が駄目すぎて、何を言っても無駄なのは、入社3日目には分かったが、兎に角、ビジネスマンとして言わなければならないことは、ビジネスマンのプライドに掛けて、どんなに無視されても言い続けた。

- 英語の勉強をきちんとする。
   あんなどうしようも無い会社で、情けない上司、先輩に囲まれていたが、少なくとも、国際営業部であったので、メールや電話等で、英語を使う環境にはあった。
そこだけは、今でも、感謝している。
あの頃、土曜日や日曜日は、家で(実家で)、一日中、CNNやBBCを聞いていたし、片道1時間半の通勤電車で、Japan Timesを読んでいた。

- 体を鍛える。
「兎に角、昼休みは30分、ジョギングをする。」、「週に最低3回は、会社近くの空手道場に行く。」を自分に課した。
あの情けない会社から、抜け出すためにも、兎に角、資本となる体だけは鍛えるべきだと考えた。
兎に角、公私ともに、暗黒の3年間だった。
今になっても、「拓銀の事は、良くも悪くもいい思い出であった!」と言い切れるが、この電機メーカーでの3年間(20台後半の3年間)は、「思い出したくも無い、くだらない3年間であった。」と自信を持って言えます。(笑)  
唯一、この3年間で有意義だったことは、英語力を少しは伸ばした事と、空手を必死にやって体を鍛え、その後の人生の土台となった事位でしょうね。。。。
とりあえず、そういう3年間でした。
何度でも言いますが、あまりにも情けない会社での、馬鹿らしいサラリーマン生活だったので、思い出したくもありません。
という事で、あの会社(あれだけ赤字を垂れ流しながら、今でも東証1部上場で残っているのが不思議)の事を書くのは、これで最後にしたく。
次回は、国際ビジネスマンとして開眼した、マニラでの「地獄だけど、充実した4年間」の事を書きたいと思います。
あの4年間は、本当に、素晴らしい4年間だった。
マニラでの思い出だけでも、残りの人生を生きていけると言う位、戦い抜いた、素晴らしい日々でした。

次回(激闘マニラでの4年間、序章)はその素晴らしい4年間について、書こうと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿