2011年1月6日木曜日

激闘マニラでの4年間 (第7章 転機!比国3社目への転職)

前回(第6章、マニア日本人社会)で、下記の様に書きました。


(以下、引用)
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2社目に勤務した、日比合弁企業の日本人ボスは、「現地採用のお前の様な人間は、クズだ!」と、現地採用の私の前で、いつも吠えておりました。
(中略)
正直に告白すれば、そう言われた時は悔しかったですねえ。
因みに、その様に、面と向かって言われた時も、表面的には無表情であった筈。
そういう時に、感情を顔に出す程、アマチュアではないと自負しております。(笑)
しかし、しばらく経って、ボスの率直な発言に感謝する様になりました。
どういう事かと言えば、下記の様に考えるに至ったからです。
「如何に、高邁な思想を掲げ、比国のローカル社会で頑張ろうと、それは単なる自己満足に過ぎない。比国で死にそうになりながら、月給数万円で一日15時間、仕事している日本人(貴公子の事)なんて、一般的な日本人社会から見れば、単なるルーザーでしかない!」
あの時の、あの駐在員のボスの言葉が、ある意味、転機でしたね。
客観的な事実を、目の前に容赦なく、叩きつけられた様な気分でした。
目が覚めましたねえ。(笑)
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2社目での、この独裁的な日本人ボスの言動が、トリガーとなりました。
15ヶ月勤務した1社目の給料は、3万円で、この2社目の給料は、SI(システムインテグレーター)の営業職として、当時のレートで8万円の給料でした。


この8万円という給料は、比国において、普通に生活するには、必要十分な給料でありました。
この2社目に転職してから、家賃が4万円のMakati地区(マニラ随一の高級住宅街)のプール付きのコンドミニアムに引越しをした程です。


また、そもそも貴公子は、昔からストイックなところがあるので、この頃のマニラでの休日の過ごし方も、質素なものでした。
つまり、日中は、自宅でTIMEやNewsweekと言った週刊誌や、仕事関係の技術書を読み、夕方は、近所の公園で空手の練習を一人でして、そして夜は、入場料150円の映画館で、ハリウッド映画を楽しんだ後、近所のちょっとしたレストランで、ビールを飲みながら、考え事をすると言った程度でしたので、十分とは言えないまでも、8万円で普通に楽しく、生活をしておりました。


ところが、上述の「率直なボス」のおかげで、「月給8万円で、毎日、限界まで仕事をし、そして、マニラでの質素な生活に満足している自分が、周りの日本人からは、単なる『変わり者』としか見られていない。」と言うことに気が付き、突然、馬鹿らしくなりました。


如何に高邁な思想を掲げようとも、単なる自己満足に過ぎないと痛感し、目が覚めました。
そうしたことから、転職を考え始めました。
但し、まだこの頃、日本に帰国する気は全くありませんでした。
(兎に角、まだ日本社会や日本企業に絶望していた。)


また、この頃、ある顧客に、無線Network機器を販売、設定した際に発生した無線局とのトラブルも、トリガーとなりました。
この無線局とのトラブルの始まりは、貴公子自身が無線局に赴き、無線機器を使用する為の適正なライセンスを取得し、その上で、顧客に販売した事に始まります。
ところが、比国の無線局役人は、お約束どおりに、後日、「お前の取得したライセンスは無効だ。無線法違反で、刑務所にぶち込む。」と、いつも通り、始まりました。
まあ、いつものお約束通りの言いがかりで、1万円程度の「袖の下」を渡して収めるか、あるいは、より「位の高い」政府高官とのコネを使って、問題を押さえつけるのが、かの国の常識であるし、「ゲームのルール」であるのだが、かの「率直なボス」を始めとした、その会社の上層部は、(会社としての合法的販売行為であるのに)、この問題を貴公子個人の問題へと帰納し、責任を貴公子に押し付けて、会社として、逃げようとしました。
ここで、貴公子の自己防衛本能が働きました。
つまり、こうしたボスがいる会社で仕事をする事の危険を感じ、この2社目から逃げようと真剣に考えたのでした。


後になって、この話を何人かの知人にすると、何人かは、自分の事の様に怒り狂ってくれて、それはそれで嬉しいのですが、実を言えば、私自身は、この会社にも、ボスにも、当時も今も怒りは全く感じておりません。
それどころか、失望さえもしませんでした。
どう言うことかと言えば、貴公子には、昔から非常に冷めた部分があり、「まあ、世の中の過半の人は、自己保身に必死な人達だから、あのボスも、そういう『よるあるタイプの人』だったんだなあ。。。。むしろ、そういう『よくいる人』を必要以上に買い被ってしまった自分自身の人を見る目の無さが恥ずかしいなあ。。。」と、当時も考えたし、今でも思っております。
要は、必要以上に簡単に他人を信用しないから、失望する事もあまりないと言えると思えます。


因みに、もし、あのボスと、明日、東京のどこかでバッタリ会ったら、その辺の居酒屋で、マニラでのバカ話をしながら、楽しく酒を呑めると思えます。
その位の分別と言うか、割り切り感は持っている筈です。


そういう訳で、自分でも驚くほど、冷静に、そして瞬間的に転職しました。
転職先は、懇意にしていた客先で、日系でも比国系でもない外資系企業。
職種は、IT Managerで、給料は、2社目の3倍以上と言うセレブな転職でした。
と言う訳で、2社目は、10ケ月でおさらばでした。


この3社目の経験は、ITエンジニアとして、大きく飛躍する機会だったと思う。
実は、この3社目に就職を決める直前に、日系の中堅商社マニラ支店から、将来の本社採用約束での現地採用オファーがあり、少し迷ったが、やはりITが好きで好きでしょうがないと言う面があり、現地採用のIT Managerを選んだ。
この時、年齢は、32歳。 2003年6月の事だった。


この会社は、PC1000台以上の大規模NETWORKを抱えていたが、いわゆるワークグループ設定での運用で、基本的なセキュリティ設定が全くできていなかった。
この3社目に在籍した1年半は、このNETWORKを、「それなり」にすることに尽力しました。
朝6時半に家を出て、帰宅は夜10時頃、勤務は月から土と言う週休1日で、日曜日もそれなりに出社したが、この大規模NETWORKと戦うのが、楽しくて楽しくて、しょうがなかった。
この頃は、夢の中でも、サーバやルーターの設定をしていた。


1年半で行った作業は、LANケーブルの張替えを含むNetwork Infra基盤の整理、旧式なデジタル電話交換機を、新型で大型のIP PABXへとアップグレード、NTTとの協業によるWANの再設定及び高速化。
そして、DNSサーバ設定によるLANのドメイン化。 Firewall設定に拠るSecurity強化、L3 SWによるLANのセグメント化。
プロキシーサーバ、メールサーバの再構築等。
やることは腐るほどあったが、楽しくしょうが無かったというのが、当時の気持ちです。


「この3社目で、Network Engineerとして必要な経験をすべて積むことができた。」と今になって、と
思います。
とここまで書いて、本日は挫折。
このマニラシリーズは本日で完結させる予定でしたが、続きとします!

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