2011年5月18日水曜日

【激闘マニラでの4年間】 第8章。喧騒と焦燥のはざまで、日本への帰国。

前号、第7章で、比国3社目での経験を下記の様に書きました。
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この3社目の経験は、ITエンジニアとして、大きく飛躍する機会だったと思う。
実は、この3社目に就職を決める直前に、日系の中堅商社マニラ支店から、将来の本社採用約束での現地採用オファーがあり、少し迷ったが、やはりITが好きで好きでしょうがないと言う面があり、現地採用のIT Managerを選んだ。
この時、年齢は、32歳。 2003年6月の事だった。
(中略)朝6時半に家を出て、帰宅は夜10時頃、勤務は月から土と言う週休1日で、日曜日もそれなりに出社したが、この大規模NETWORKと戦うのが、楽しくて楽しくて、しょうがなかった。
この頃は、夢の中でも、サーバやルーターの設定をしていた。
(中略)やることは腐るほどあったが、楽しくしょうが無かったというのが、当時の気持ちです。

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ここの会社には、本当にお世話になりました。
思えば、2001年春に、地縁も血縁もないフィリピンに、単独乗り込んでから、予想外の厳しさに、本当にめげそうになりました。警察官からの脅迫、悪徳不動産会社から、大金を騙されたことと、それを奪い返した事、そして、汚職役人からの告訴と、裁判所からの召還等、泣きたくなる様な事は沢山ありました。
そうした困難を、ビジネスマンとしてのプライドと、空手家としての不屈の精神のみで、何とか乗り切りながらも、精神的にはすさんでいた時期に、手を差し伸べてくれたのが、この3社目の会社でした。


勿論、現地採用の身分だったけど、それでも、現地採用スタッフに対する愛情と、ケアを感じました。それまでのマニラ生活では、「すべてを自分で解決するしかない。」と片意地を張って生きていたが、この3社目で、やっと安心して、生活を楽しむ余裕が出来たし、結果として、仕事に集中することができました。
(この頃は、マニラから車で、3時間程度の地点での、スキューバーダイビングに嵌り、ほぼ毎日曜日に、終日、ダイビングをやっておりました。)


最終的に、この会社では、1年半程、お世話になりました。
確かに、給料の話をしてしまえば、東証1部に上場している様な会社とは、大きな差が出てしまうのでしょうが、それでも、素晴らしい同僚に恵まれ、ITエンジニアとして、周りから信頼を受けた、とても充実した期間でした。
本当は、この会社にずっと勤務したいと思っていたのですが、2004年秋に、個人的な事情で、日本に帰国さざるを得ない状況となり、2004年9月に辞表を出しました。
本来、計算高い私(笑)は、「次の就職先を東京で決めてから、辞表を出す」様な嫌な人間なのですが(笑)、この会社においては、そういう、「駆け引き」をしたくなかったので、東京で、就職活動を開始する前に、辞表を出しました。


すると、この会社の社長は、「辞表は、受理しない。東京で新しい仕事が決まるまでは、ここにいて欲しいし、どうしても決まらないなら、日本の関西圏にある、提携会社を紹介するから、今は辞表を引っ込めてくれ。」と言って下さいました。
この時の感動は、一言では言えません。こうして、半ば会社公認で、転職活動を始めました。
利用したのは、インテリジェンスと言う、東京にある、転職斡旋会社。(Head Hunting会社)
履歴書を出し、「東京にあるSI企業の技術職か、技術営業職、あるいは事業会社のIT部門なら、どこでも可。」と言う要望を出し、後は、待ち。
確か、10日間で、大小含めて、10社程度から面接のオファーがあり、木曜日日本帰国、日曜深夜比国戻りの様な生活を、4週間位、続けて、某大手日系グローバル会社のITエンジニア職で採用が確定しました。
2004年10月下旬の事です。(因みに、この会社には2011年現在、勤務中です。)


ここからが忙しかったですね。(笑)
毎晩の様な比国での、送別会と称した呑み会と、仕事のラストスパート。
また、いよいよ去ると思うと、変にノスタルジックになってしまい、比国中をウロウロしてしまいましたねえ。(笑)
兎に角、あの4年間は、最初の辛い激闘2年(笑)と、残りの安定・充実の2年(笑)でしたね。
「あの4年間の思い出だけで、残りの人生を生きていける!」と思った程、充実した4年間だったし、今でもそう思っております。
次回で、「マニラの熱い夜」は、終息します。そして、総括します。(笑)
請う、御期待!

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